
「県庁前とか大工町に市場が開かれると、チャッ、チャッ、 チャッて汽車みたいに走ってくるんですよ。
だからあたしらは、チャリアって呼んでたの。
よっぽど、水浜線の蒸気機関車が大好きだったんだっぺね、いっつも真似してさ…笑!
『県庁前市場だよう!今日は何々が安いよう!』って。
『チャリアご苦労さん』っていうとニコニコ喜んでね。
『おばさん、くるのけ?、こないのけ?』つうってね…。」
水戸のあるお年寄りが懐かしそうに話す、思い出話です。
昭和五年頃、水戸では市場が開かれていて、 そのお知らせ係をチャリアが担当していたのだそうです。
今でいえば特別支援学校クラスの発達障害の方だったのでしょう。
チャリアは、 明治二十八年、大洗町に生まれました。
本名は、高野藤太郎さんと言います。
裕福な煙草農家に生まれましたが、家は没落し、一家離散、十二歳の頃から水戸の町を放浪、名物男として多くの人にかわいがられたそうです。
「うちげでたき火してたら、そこへ来て、あたってたから、
『ついでに車引っ張ってけろ!』
といったのが縁で十二年も面倒を見たんですよ。
『今日は市場だよおー。』
って、どなって歩くのが嬉しいらしくてねえ。 それで、
『納豆、 持ってきてくれや』
『ハイ』
って。 用を頼まれたんです。」
チャリアはいつのまにか、町の便利屋さんになっていたそうです。
不思議なことに電話番号を全部覚えていて、通りがかったチャリアに電話番号を聞き、時に食事をふるまう家もあったといいます。
水戸の街の人に囲まれて生きた、チャリアの人生はきっと幸せだったことでしょう。
四十九歳の時、 盲腸を患い、 市場の人の世話で厚生病院に入院。 手術は成功したのに、 周囲の止めるのも聞かず、水枕の水を思う存分飲んで亡くなったそうです。
チャリアの死を悼んだ市井の人は「水戸チャリアの墓」を建て、 見川町の妙雲寺に手厚く葬りました。
妙雲寺は水戸天狗党を率いて上洛、 斬罪された水戸藩家老、武田耕雲斎の墓所がある所です。
多くの町の人達に助けられ、 自分の仕事を見つけ、役に立とうとしたチャリアは、本来どこにでもいるひとりの障がい者だったはずです。
チャリアを見守った昔の水戸の人たちは、 地域の一員として認め、 ごく自然に社会生活をおくらせていたのです。
今、私たちが目指すノーマライゼーションが、 そこにあったのではないでしょうか。
そして反対に、チャリアの地域の一員としての存在が、 水戸の人達の持っていた優しさを大きく引き出したのでしょう。
当たり前すぎて、ついつい忘れてしまいがちですが、
わたしたちは、小さな社会(職場)の一員として、必要とされ、 認められ、 褒められる事によって、 誰もが楽しく暮らしています。
必要とされること、認められること、そして、褒められること。
そんな些細なことが、誰もが社会の一員となっていく手助けになっていくのではないでしょうか。
参考資料:
同時代ノンフィクション選集3 障害とともに 新しい自己(II)
第3巻月報(1993 年 2 月)忘れ得ぬ取材より
「水戸チャリアの墓 」大野智也 氏
柳田邦男責任編集 発行所 株式会社文藝春秋
※障害者という表記について、
「害」ではなく「がい」もしくは「碍」を使用するべきというご意見がありますが、
言葉尻を変えただけで差別意識が改善するわけでもなく、普段、私は配慮しませんが、
今回は柔らかい文にしたかったので「がい」とひらがなで記しました。